日本語と英語の行く末は……

 自分のアマゾン・ジャパン買い物かごをのぞく。現在、中身の内訳は日本の昔話絵本が10冊ぐらいで全70冊の残りはすべて翻訳絵本である。なぜこうなるかといえば、米国に在住しているから。すでに原書で読んだ作品の邦訳絵本を注文する場合がほとんどだ。子どもたちにとって内容理解がたやすいし、両言語に触れることができて一石二鳥。もし日本に住んでいたら、もっと日本の絵本を手にしていたと思う。
 うちのような環境の場合――日本語と英語の両方を機能語として習得する環境――、子どもの母語習得の不安は常につきまとう。それは米国に移民してきた子どもたちみんなが味わう避けられない環境でもある。英語文化の背景を持たないのに、英語が母語になるなんてわたしにはとても考えられない。子どもたちの英語は、機能語としては成り立つけれど教養語としては成り立たないだろう。でも、世の中には言語間コミュニケーションも必要とされるから、彼らはそんな役割を担って社会で自立していく。残念(……と言ってしまっていいかな……)だけど、それしかない。もちろん、本人の感性により、機能、教養語両者を習得することもあるけれど。
 これだけ多民族国家になった米国で、英語の行く末がどうなるのか非常に興味深い。言葉の文化背景がどう変容していくのか。教養語――古典を深く味わう洗練された言語レベルと解釈しているけれど――としての英語は、昔のことになってしまうのか。あるいは、二極化が進むとか。米国は異文化集積の地だから、他国に比べ言語変遷の加速は避けられない。それはこの国の選択であり、同時に宿命でもある。 
 では、日本はどうか。他国に誇れる日本文化、日本語があるのに、なぜかその宝物の価値が見えず、外からやってきた、自分たちにしてみたら形だけしか残らない物ばかりを追いかけていないだろうか。言語を粗末にする国に未来はない。なぜなら、言葉は心であるから。これは、子育てを通して日本語を伝える立場になり、身をもって感じていることである。
 内田先生が日本語について執筆されていたので、わたしも日ごろの雑感をまとめてみた。(asukab)