いじめとスキーマ

 いわしで書いたことが気になったので、子どもと関わる大人として、所感を記しておこうと思った。(参照:question:1163562707
 わたしが書いたのは「親として自分にできること」というタイトルで以下のような文章。……親としての使命は、幸せな子どもを育てることです。これができていれば、誰も「いじめ」などしない、というのが持論です。いじめの心理は、その子どもの嫉妬であったり欲求不満であったり。(これは大人にも当てはまるでしょう。)いじめる側の歪んだ心理がなくなれば「いじめ」はなくなるはずなので、そう考えると子育ての責任は計り知れません。…… 
 その後、少し考えてみた。「いじめる側の歪んだ心理」という原因の知れている場合は対処の仕方があるが、「いじめている=相手を傷つけている」という自覚のない場合はどうなんだろう。つまり、「相手がいやな思いをしている、傷ついている」と伝えても加害者にその「感覚」がわからない場合だ。
 そこで、「schema」(スキーマ)という言葉を思い出した。勤務する小学校では全校上げてのリーディング(読書)&ライティング(作文)指導に「スキーマ」というキーワードを用いている。辞書には「シェマ=世界を認知したり外界にはたらきかけたりする土台となる内的な枠組み」とあった。教室では「自分、あるいは、みんながすでに知っている経験や知識、学び」ということで、個々に内在するスキーマ(過去からの学び)を使って読んだ本と自分を結びつける学習活動に取り組んでいる。同じ絵本でも、読者がそのスキーマを持つと持たないのとでは、感情移入の仕方がまったく違う。共通体験を持つ者同士、同じ本に感動することがあるかと思えば、異文化背景を持つために理解すらできないというそれぞれの差異は、すべてスキーマの有無から発生する。
 「痛みを痛いと感じない」感覚は、「その」スキーマを持たないことが原因なんだろうと思った。過去からの学びがない、ということは、往々にして大人(親)の責任だ。しかしながら文明のおかげで世の中これだけ便利になってしまえば、人間誰しも楽な方向に流されがち。とりあえず不自由のない生活が保障される中、そうでない他人の痛みなどわかるはずがない、と醜い状況が当然にも見えた。この無感覚は、自然に流された結果になる。裕福な暮らしから離れられない人間に、どうして貧困や苦痛の中で暮らす人々の気持ちがわかるだろう。そのスキーマがなければ、なおさらに。
 歴史が示すように、物質的な豊かさは人を堕落させる。ここで危機感を抱く人たちはまっとうな生き方をしようと、他人の痛みがわかるように――いつも感じる心を維持できるように――と、賢者や宗教の知恵に学んだり、故意に文明に乗り遅れる生活を送ろうとしたり、いろいろあがいてみる。
 自分が物質に囲まれ楽してる中で、子どもに「人の心を感じるようになりなさい」なんて言っても響かないなー。脚下照顧。(asukab)