子どもの本は、子どもを救えない

 児童文学には多感な子どもたちを支援し、成長を見届ける使命がある。ということなのだけど、これだけ読書のさかんな米国にあって(というか、都市問題を抱く社会ではどこでもそうなのだろうが)、その命題がまったく機能しない部分が存在する。これは子どもたちに男女間の社会性が芽生える3年生ぐらいから、悲しいかな、始まってしまう。
 自分の働く小学校は、生徒の70%以上がフリーランチ受給者という貧困層からなる。その中には、移民とブルーカラーの2グループがあり、両者の文化性はまったく異なる。移民層の生徒に英語の児童文学はストレートに伝わらない。でも、このグループの子どもたちはみな心が白紙状態で、時間をかければ良質な言語文化と社会性を伝えることが可能である。問題となるのは、ブルーカラー層の子どもたちだ。俗にホワイト・プアと呼ばれる白人系と、ジェネレーションに渡り悪循環を繰り返す黒人系の子どもたち。今回は、このグループの子どもたちについて記しておきたい。
 まず、ほとんどの家庭が崩壊している。離婚もあるが、それよりも多いのが、母親が10代で妊娠したという例。要するに、父親が誰なのか、どこにいるのかわからず家庭に存在しない。主人のクラスで、両親が二人揃っている生徒は全体20人の約1/3(7人)だけでうち5人は移民家庭。残りはすべてシングル家庭で、離婚が5人。残りのシングルマザーは、10代で母親になったケースである。若き日の快楽が諸悪の根源を生むこのパターンは悲惨だ。母親自体、生きるのに必死で、子どものことなど無関心。社会的責任を理解しないまま子育てすることになるので、子どもは100%情緒不安定になる。
 個人情報に抵触するので教師は追及できないが、崩壊家庭は経済基盤も崩れていることが多いため複数家庭が一軒家で共同生活する場合が出てきて、その家族間でまた子どもが生まれるなど、倫理も何も存在しないめちゃくちゃなことが起きていたりもする。うちの学校は、このケースが多いらしい。校長とカウンセラーしか知らないことだけど。薬物、暴力、犯罪……、こんな状態だったら、そうならないほうが不思議なくらいだ。
 こういう現場に居合わせて、児童文学、絵本なんて言ってられないじゃないかと落ち込む日が多い。この子たちはどういう中学生になり、高校生になるのか、考えるだけで真っ暗闇。すべて大人のせいなのだが、誰もどうすることもできない。彼らは親がしてきたように快楽に染まり、同じことを繰り返すのである。人間の弱さがすべて子どもに反映され、彼らも同じ弱さを携え生きることになる。ここが克服できない限り教育も何もないと思うのだけど、人間が人間である限り、この弱さは克服不可能なんだろう。
 きれいごとを言う児童文学は嫌いだが、なくなってしまえばさらに希望はかすんでしまう。子どもの本は子どもを救えないけれど、救おうという気概は失ってはいけない。それはわかっている。でも、現場を知らない人間が子どもの本を語ろうとする無神経さは、どうしても理解できない。