「仕方ない」を知っている子育て

 子育ての責任が母親へのしわ寄せになる記事「談合社会の崩壊の中で「お母さん」たちが担っているもの - アンカテ」を読んでの雑感。自分のまわりでは起きていない現象だと思いながら読んだ。というのは、ここは「子どもは父さん、母さん、家族みんなで育てるものという意識が当たり前の社会」だと感じているから。
 みんなが子育てを楽しんでいる理由は何だろう。現実的な視点で自分のまわりを見回してみると、米国家族社会では責任者が不在だから……ということが理由のような気がしている。非常に無責任に聞こえるかもしれないけれど、何か困ったことが起きても、「仕方ない」で済ませることが多い。事象の程度にもよるが、往々にして人身事故に関わらないことであれば、この発想が家庭でも、学校でも、コミュニティー、どこでもまかり通っているような。子育てがうまくいかなくても、「どうしてかしら、わからないわ〜。仕方ないわね」で済ませているケースが多いような。だからみんな、とっても気楽でいられるのだ。「仕方ない」を知っている強さというか。これを無責任と取るか否かは、文化性の違いだろう。全体像を捉え精進する中で感じる心情なので、諦めとは違うのである。
 米国は米国で社会経済的な負性*1が子育てに反映していて、日本とは異なる質の問題を抱えている。でも、母親一人に子育ての重責が置かれるという社会的現象はないなあ。日本だけ? お隣のアジア諸国ではどうなの? とにかく日本を一見して感じることは、あちらは恵まれた社会だなあということ。これは米国中流層にも言えることだけど、恵まれた環境が過剰になると、知らないところに落とし穴が潜み始める。
 持論としては、コマーシャリズムやメディアの煽る風潮に100%乗らないことが基本。絵本はそれと対角に存在するから、平和で穏やかなのだ。人々の日常が、慎ましくて美しい。絵本の中の「お母さん」はやさしく、どんなことがあっても慌てず、怖じけず、ゆったりと構えている。きっと、いい意味での「仕方ない」を知っているからだと思うのだけれど、どうでしょう。

*1:貧困層の家庭崩壊の場合、学校こそが子どもたちにとって楽園という実情がある。家庭は暴力、ドラッグなどの蔓延で子育てどころではない状況。