伊勢神宮の徴古館で 志村ふくみさんの著作から

 志村ふくみ、志村洋子著『たまゆらの道―正倉院からペルシャへ』で、迫真の表現に出会ったので記録しておく。染織家志村ふくみさんが伊勢神宮の徴古館で御神宝を観覧されたときに出会った諺とそれに対する彼女の一言。
 伊勢神宮では二千年もの間、二十年毎に二千五百点にもおよぶ装束・神宝が古式のまま新調されている。明治以前まではすべて、燃えるものは燃やし、土中に埋めるものは埋めていたという。そのような悠久の流れの中で神に仕えていると次のような箴言が生まれるのだろう――「我々は物は要らないのです。技術をのこすのです」。そこで志村さんは問う。「技術とは何、技術とは魂のことではないの」と。
 神宝の中にはつげがわずか10センチぐらいの小さな櫛笥があり、間はわずか0.35ミリ。どうして人間の手がそのような神業をなせるのか、志村さんは櫛司の諺を聞いて圧倒される。(以下引用)

「手でひくな、心でひくな、闇夜に霜の降るごとく」と。
 この言葉をよんだ時、私は、物をのこさず、技をのこすという真意はこれかと思った。手でもひくな、心でもひくな、とは、絶体絶命である。ならばあとは暗闇に霜がしっとり降るように、いつしか霜柱のような櫛目をのこすのか。技にはそういう一瞬というか、境地がのこされているのか。神々に捧げるということはそこまで技を清めることであるのか。……御神宝のすべてに射し貫かれている日本の魂ともいうべき技、脈々と千余年を造り変え、造り変えして、蘇り、生き継ぐこの真意は何か。もう一度、二度、何度も問い質さずにはいられない。

 神を見るレベルとは、アートの極みにも通じると思うのだが。わたしも文章を書くときに、そんな至難の業が自然と感じられる境地に足を踏み入れたいなと、とんでもない妄想を抱く。