パリのおばあさんの物語

 人生四十路を迎えたあたりから、ぼんやりと老後の暮らしを思い描くようになった。どこで暮らそうか、何をしようか。移住が当たり前の米国にいると、家族編成によって家のサイズを変え移り住む習慣が、いつの間にか自分の中でも普通に感じられるから怖い。
 古典美を探究するなら古都京都、気候を満喫するなら豪州シドニー……今まで住んだ土地を振り返りながら思いを巡らせてみる。田舎の信州も自然が美しい。けれどもやはり住みやすさとなると、ここシアトルだろうか。森林に埋もれた空気の澄んだ当地に住み、この緑と水が命を支えてくれるのだと感じずにはいられない。
 そうして自分はどんな老女になっているのか。年配者と出会うたび、歩んだ人生、囲まれていた家族、この方の表情を作ったものは何……などと、うるさいほどに思考が働いてしまう。無意識のうちに老いを迎えたいのだけれど、そうならない自分が今の姿らしい。
 パリのおばあさんの人生は、どんなもの――。『パリのおばあさんの物語』を知り、深く興味を抱いた。表紙には、朝もやに煙る石造りのアパルトマン。シネマの一シーンの中で*1、すでに物語ができあがっているかのような光景だ。まだ薄暗いパリの片隅に、ぽつりと灯りの点った窓がおばあさんの一室。おじいさんが亡くなった後、ひっそりと一人で暮らしている。
 朝市に出かけ、小銭がなかなかうまく取り出せない。アパルトマンに戻り、錠前に鍵を差し込めなくてひと苦労。若かりし頃は活動的で、自然を愛し、本を読み、人生を謳歌したけれど、今は体がきかずに、できないこと山積の毎日が続く。それでも「やりたいこと全部ができないのなら、できることだけでもやっていくことだわ」――。おばあさんは暮らしに感謝し、日々を過ごす。
 本書は、おばあさんの暮らしを伝えるだけの絵本ではなかった。そこには戦争の傷跡が残され、ユダヤ移民として東欧からナチスの手を逃れた苦労も描かれている。家族が離散した悲惨な体験からは「そのときから、おばあさんは 世界中のおいしいお菓子を全部もらっても、あのとき、心を傷つけた苦い痛みは決してやわらぐことがないと知りました」「家族が一緒に暮らせる幸せが、いちばんなのです」――。家族が最優先の価値観は、どのような人生を歩もうと一生もの。この基軸さえずれなければ、人生は豊かなものだ。
 やさしく語りかける日本語が、しっとりと心地よかった。手帖のようなソフトカバー仕様も、両手に溶け込む親密さをかもしている。(asukab)
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