英語ではないグロービッシュの繁栄

 機能語(道具)としての英語が広まり、英語こそ存続の危機に瀕しているのかもしれない……との問いを投げかける内容の記事*1を読んだ。もはやこの言語は英語(English)とは呼ばれず、グロービッシュ(Globish)の名称を持つ。実際、移民児童の多い土地に住んでいて、この指摘は心底納得だった。グロービッシュは、ビジネス・コミュニケーションとしてだけでなく移民子弟の間にも広がっているのだ。
 平和で安全な生活を求め、貧困からの脱却を願い、近隣の中南米はもちろんのこと、数年前からはアフリカ、最近は中近東からの移民あるいは難民家族が続々当地に入国している。米国社会で暮らしていく以上、英語習得は必須。小学校のELL(English Langauge Learners)教室では、新入生が跡を絶たない。
 子どもにとりもっとも幸福なことは、両親が母語で話しかけともに時間を過ごすことだと思うのだが、ここにいると英語と呼ばれるグロービッシュの習得に時間的な影響を及ぼされるので、ときには母語や母国語習得が危うくなってくる。子どもの教育上、もっとも避けたいセミリンガル*2の状態だ。そのうち母語や母国語はグロービッシュに押され、影が薄くなる。
 グロービッシュで学ぶ子どもたちは高等教育を受ける頃、英語を身に付けるのか、グロービッシュのまま機能を優先させて進むのか、選択に迫られる。まったく個人的な認識なのだけれど、両者の違いは時間(歴史=堆積されるもの)語となるかならないかの差異である。その言語に染みこんだ時間の流れ、歴史的背景を味わえるかどうか、味わいたいと感じるかどうか、味わおうと探求するかどうか……の姿勢、行為で英語とグロービッシュは異なる領域に隔てられる。外国人の場合、文化的な支柱がないため、ほとんどはグロービッシュのままで進むだろう。たとえ社会経済的に高度なプロフェッショナルになり得ても、時間語としての英語習得は物理的な時間に後押しされていないので、例外もあるだろうが、一般的にかなり困難である。
 日本語を国語、つまり時間語としてすでに味わえなくなっているわが子たちを思うと、せめて英語だけは古典を味わい、先人たちの発した声を暮らしの中に聞いて欲しいと願う。悠久の時間を言語から感受せずして、どうして人間性が養えるだろう。時間語としての言語習得は、親としてもっとも強く願うところである。 
 絵本はたしかに機能ではなく時間、堆積物としての役割を果たすので、成長しても幼少期を振り返り、古典と同じようにページを開いて欲しい。深い時間とのかかわり、突き詰めれば死者とのかかわりが、もっとも豊かな心を培う魔法と信じているので。

*1:BBC NEWS | Programmes | From Our Own Correspondent | New lingua franca upsets French―記事の後半に注目。

*2:子どもの成長過程でもっとも大切とされる「認知力」が伸ばせない状態。言語は何であれ、「赤」を「赤」、「まる」を「まる」と、個々の事象について知識を持つことがもっとも大切とされる段階で、複数言語が交わることにより認知力が混乱して曖昧になり、「赤」が"red"なのか"rouge"なのか、肝心の赤い色の認識が困難になってしまう状態。社会言語として複数言語環境が存在する場合は当てはまらない、と個人的に理解。とくに、漢系言語とヨーロッパ系言語の間で、顕著か?