当校教育事情について 

 当校というより、これは当地公立小学校全域での方向転換について。米国の教育は歴史の中で常に振り子のような変動を見せていて、「クリエイティブ・アート志向、楽しい授業、けれどもテスト結果が出せずにいた流れ」から現在は「基礎力、土台作りのドリル中心、必ずテスト結果の出る流れ」に変わりつつある。つまり、就学以前に基本的な生活の知恵も授けられず、ほぼ存在を無視されているような子どもたちが通う社会の底辺校では、とにかく読み書きそろばん(リーディング、ライティング、算数)のみに焦点を当て、徹底的にスキル・ベースの教育を施す向上策が取られるわけである。 
 わたしが渡米して一番感動した、テーマ・ベースの授業――テーマ別に単元を構築し、国語、算数、アート、音楽、ゲームなど複数の教科を組み込む合科型の授業――は、影を潜めてしまうわけだ。これだけ異なる文化背景を持ち、異なる言語を話す生徒がひとつの教室に在籍していると、テーマというひとつの文化を共有する設定自体に無理が発生してくることがその理由。ただでさえ準備の大変な合科型の授業に、テーマのスキーマがない生徒、まったく理解できない生徒が増えれば、教師の負担がますます増え、授業効果はほとんど望めなくなってくる。テーマ型の授業は、ある程度、生徒の学力と文化背景が一定に揃っていないと実践が難しい。
 一方、スキル・ベースなら、国語は読書と作文のスキル、算数は解法のスキルを教え、個々のレベルは個人が好きなように発展させていけばいいので、教師の負担も軽減され、両者にとり一石二鳥の方向となるわけだ。というか、その方法しか取れないというのが現状なのだから仕方ない。伸びる生徒は別に教育方法がどう変わろうとも、確実に学力をつけていくのだが、社会経済的に決定的に不利な立場に置かれている生徒には、直接的な技術伝達のほうが効果が見込めるのだ。
 しかし、私学はまったく別である。そこでは資金力、教育環境の整った理想的な家庭が学校を支えているので、それはもう、教養・アーツ、ヨーロピアン・アカデミアの流れをそのまま受け継ぎ、最新テクノロジーを駆使した世界の最先端を行く教育が施されている。米国の知能は、もちろん例外も多々あることは十分承知で、私学教育が支えていると個人的に断言したいほどである。また公立でも富裕層の住む地域では、私学のように財力があるので、話は別である。
 というわけで、当校低学年の授業。校長がここ数年、一番の看板教師として売り出している新卒教員暦3年の若手教員による1年生のクラスである。その実態は、一言で表現すれば、まず1年生らしい雰囲気がまったくない授業、と言えるか。教師に手なずけられ、新興宗教の教祖さまに洗脳されているかのような物音一つ立てない不自然な静けさの中で、巧みにスキルの調教が行われている。私語がまったくないクラスなので、学校見学とか研究授業は、もちろんいつもここが目玉になる。これでテスト結果が出ているのなら、まわりは何も言えないのだろう。しかし、あまりにも不自然な教室環境のため、正直わたしは親として自分の子どもは入れたくないクラスだと生理的に直感している。
 底辺校でクラス運営を成功させるコツは、一種の宗教のような「洗脳方法」かと察しているのだが、このような率直な感想はもちろん公けには漏らせない。でも、確かにキーポイントは、そこにあると思う。
 何と言うか、これからは、創造性を発揮しながら深く人間性で包み込むような教師より、マニュアル通り子どもを訓練し、結果を出せる教師が求められるということか。結果を出すことは大切だが、短絡的な目先の結果だけに終らないことを願いたい。
 国語、算数の各授業詳細については、あらためて別記。