Carousel わたしのメリーゴーランド

 いろいろなことが偶然に重なり、その意味からも今日は『わたしのメリーゴーランド』について記しておこうと思いました。まず、重なった事象とは――①一昨日、メリーゴーランドがテーマの絵本を紹介していたこと。②色の魔術師ブライアン・ワイルドスミスに師事していたワッツの絵本をここのところ、多く紹介していたこと。③娘が先週木曜日からずっと学校を休み、ちょうどこのメリーゴーランド絵本のロージーのような状況に置かれていたこと――などなど。
 ロージーとトムは、お祭りになるとやってくるメリーゴーランドが大好きです。今年もさわやかな風が吹く頃、子どもたちの夢をいっぱいのせた大きなお祭りのトラックが町にやってきました。「まわれ、まわれ、メリーゴーランド! ずっとわたしをのせていて!」――。ふんわり、軽やかに回るメリーゴーランドで、ロージーは歌うように話しかけました。でも、お祭りはいつまでも続きません。幾日かたつと、お祭りのトラックは次の町に行ってしまうのです。「また来年もきてね! きっとよ!」。ところが、その冬、ロージーは重い病気にかかり、長い間学校を休むことになりました。心配した友だちは、ロージーのために絵を描き、プレゼントを贈ろうと計画を立てます。贈り物を受け取ったロージーは……。
 始まりから終りまで、描かれる人々の心、まわりの景色、自然、メリーゴーランド、すべてが美しくぬくもりに満ちた絵本です。いいですよね、こういう心あたたまる絵本。
 自分から見ると、絵本にはなぜか時代の顔があります。この絵本はずばり、わたしが子どもの頃の絵本の顔をしていました。でも初版は1988年。初見には10年の見誤りがあったのですけれど、でも絵本からあふれる品格は確かに、わたしが幼少期に受けたようなまごころを抱いていました。
 後半の、メリーゴーランドの存在を夢の世界まで広げていく描写は、ワイルドスミスならではの無限性を感じさせます。夢とかメルヘンとか、振り返ってみれば、それらはわたしの子ども時代のキーワードでもありました。純粋な憧れとか夢とか、商業主義やご都合主義を感じさせない清らかな心が、あの頃にはなぜか感じられたのです。それは、わたしがまだ何も知らない子どもだったからでしょうか。今もそういう世界は存在するのでしょうけれど、あまりにも「お金」がすべての価値観を牛耳ってしまい、よく見えなくなってきています。でも、ロージーの夢の世界を見た瞬間、時計は一気に逆まわり。子どもを深く思う大人の大きなポケットにもぐりこんだかのような懐かしい気持ちが戻ってきたのです。
 娘が厄介な流感にかかり、この一週間ほど微熱の下がらない日々を送りました。きっと、絵本のロージーのように、オブラートに覆われたような日々を遠い目で夢想していたに違いありません。楽しみにしていたクラス写真にも入れず、上級生による演劇も見れず、親友のお誕生会にも行けず……この経験は彼女の心の中で、キラリと光る記憶の結晶に成長していくことでしょう。 
さて、色の魔術師ならではの多色使いはといえば、町の光景、ロージーや友だちを描いた場面など、素朴な日常描写もさり気なくですてきですが、目を見張ってしまうのはやはり後半。ロージーが、彩りあふれる夢の世界で遊ぶ場面です。国語の教科書の表紙に見るようなメルヘン風の情景が、ページによっては一瞬、ふわりと浮かびます。日本の画家たちも求めていたのですね、ワイルドスミスのようなファンタジーの世界を。それは、きらめく存在感を放ちながら、子どもの抒情をたたえています。書影は、原書。
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CAROUSEL

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