イースターとテント・シティと購読している雑誌のこと

 雨模様のイースター。しとしと濡れた芝生でのエッグ・ハントは、子どもたちがにぎやかでも何かさびしげだった。教会の駐車場には、テント・シティの青いビニール張りが続く。貧富、強弱、明暗、勝敗……人生の反対語らしきものがみごとに大聖堂の敷地内で成り立っていた。
 おめかしは娘だけにさせた。自分はどうしても、新しい服を着ようとか、新しい靴を履こうとか、そういう気になれない。テント・シティのことを思うと、最低限の衣食住で成り立つことさえ、何か罪に見えてくるのだ。確かに今日の日の復活は「ハレルヤ!」――ではある。(一方でハレとケの区別ができなくなったら文化は廃れてしまう、と危惧する気持ちも持ち続けてはいる。)
 人生は強者と弱者がどう関わっていくかの練習というか、最近そんなことばかり考えている。水曜日、定期購読している雑誌を日本の書店に取りに行った。半年ぶりで、3冊もたまっていた。自然や暮らしの背景など写真のきれいな隔月誌はとても魅力的なのだけれど、講読は止めようかとなぜかいつも思っている。生活に根付いた冊子で、役に立ってはいる。でも、何となくどこかでうっすらと肌が合わない。旬の日本語に触れる目的で雑誌嫌いの性格を封じ、これでも自分の感性に一番近いものを選んだはずだった。合わない理由を探ってみると、憧れの部分では共感するけれど、現実ではまったく共感できない事実に行き着くことになる。自分のしあわせを伝えるだけで、人はどうでもいいという暮らしぶりが多いのだ。みな、きれいに慎ましやかに暮らしていて、多分、ただそれだけ。そうでない人々――他人対他人をしっかり生き抜いている人々――の生き様にも、たまに遭遇するけれど、それはほんとうに稀なことのように思われる。だから購入しても、特集によってはほとんど読まず、積読状態だったりする。それならその分を絵本に回すほうがずっといい! これだけ世の中が便利になり、先進国で豊かに暮らしている読者に、もうすてきな生活提案も何もする必要はないだろう。自分の場合、メディアはウェブとラジオだけで充分だ。
 社会の底辺でもがいている人々と関わり続け、自分の一生は終りそうだ。少々疲れ気味が引っかかるところだけれど、それでいいのだと人生後半を見据えている。絵本と音楽とヨガやピラテスに、ときどき助けてもらいながら。そんな気持ちを確認した雨のイースター