わたしの読書考

 昔から多読ができない。友人から「おもしろいよ」と進められる小説・エッセイがちっともおもしろいと感じられず、本嫌いの劣等感がどんどん募っていった。これは高校時代の話である。 
 中学生の頃は、何を読んでいたんだろう。アーサー・ランサムの「ツバメ号とアマゾン号」シリーズに夢中になっていた頃か。でも、思い当たる書籍名はそれ以降、ぷっつりと途絶える。高校から大学時代まで詩は読んでいたけれど、小説はあまり読まなかった。理由は何か。最近よく思いに耽るテーマである。ブログの盛況で本好きさんたちのコミュニティーがたくさんできているが、わたしはそのどこにも所属できそうにない。
 子どもの頃から、視聴覚に刺激を受ける性質だったからだろうか。言葉や文章に視覚的、聴覚的表現が加味されていたら有無を言わず、それはわたしのお気に入りになる。これだけは間違いない。だから言葉の連なりでいえば多くの場合「詩歌」になり、それも自由詩より定型詩に魅せられた。 
 最近の考察で感じることは、非常に主観的だが、「思春期に少女漫画に熱中しなかったことが原因かもしれない」ということ。いろいろブログを拝見していると、本好きな人たちはみな漫画やアニメの話題にも通じているように見える。漫画って、つまらないとは思わなかったけれど、自分でお金を出し身の回りに置いておきたい存在ではなかった。漫画の抒情性は小説にも通じるものだろうから、この疎外感が多読からわたしを引き離したのかもしれない。
 アートと音楽だったら無条件にすべてを堪能できる。でも、こと言葉、書物に関しては、日英言語に限らず自分の好きなものしか受け入れることができない。これがわたしの個性といえばそれまでか。自然体で、今後もこのスタイルでいくしかないのだろう。(asukab)