コミュニティーのあり方

 小雨まじりの夕方、「この調子だとみんなモールに行っちゃうから、子どもたちの数は少ないね」――。主人の予言どおり、午後7時を回ってもにぎやかな声は通りから聞こえてこなかった。家では友だちを招き、息子が玄関付近の演出・飾り付けに精を出している。せめてもハロウィンの夜を盛り上げようと必死というところか。すでに娘を含めた彼ら3人はご近所何件かを回り、枕カバーの底が重くなり始めていたから、お菓子集めの方は満足していたのかな。わたしは、合唱クラブから頼まれたピアノ伴奏の練習に励む。それにしても、このまま寂しいハロウィンで終るのか。 
 ……と思いきや、雨が上がったと同時に通りから子どもたちの笑い声が聞こえ始めた。「Trick or treat!」――人数が少なそうだから、1人に2〜3個と大判ふるまい。知ってる顔がいっぱいやってくると(マスクで見えない場合もあるけれど)、やっぱり嬉しい。こういうつながりが、「地域=コミュニティー」というものなのかなと思う。基本的に、相手の家族構成や背景などほとんど知らない人々ばかりが集まり、特に子どもの活動を通しての楽しみを増やしていく、という形態である。「子ども」の存在は、やはり大切な共通項だ。
 『Eddie's Kingdom』はこの週末、息子と読んだ絵本だった。表紙を見て、タイトルを確認して、「子どもっぽい絵本」という印象を抱き、外に遊びに行こうとしていた彼だったが、カバー折り返しに印刷された紹介文を読むとじっと聞き入り、「読んで」と戻ってきた。「廊下はゴミの山。騒音。エディーのアパートの住人たちは、何かをはき違えている。みんなけんかをして、不満をエディーのせいにするんだ。……」この部分、彼には思い当たる経験があるのだと思う。小学校時代、こういう環境で育つ友だちに囲まれていたものね。結局息子までが「Who cares?(そんなこと、どうでもいいじゃん。)」と、相手や自分、将来のことなど、もうどうでもいいといった無関心ムードに襲われていた。当然のことながら、これは彼らを取り巻く大人社会の影響である。社会的に自分のことで精一杯の大人たちが周りのことなどどうでもいい空気を子どもに伝えるから、そこでは正常な市民生活は営まれず、市民教育もなされない。(その点、アジア的精神性の高さは人々の生活を救う。社会経済状況が劣悪でも、崇高な精神を持ち困難を越えていく姿勢からは学ぶことが多い。ただ、価値観のあり方には疑問が残るが。)
 冒頭の見開きには、子どもらしい描線によるアパート全景の絵。真ん中に、男の子の顔が見える。「ぼくは、エディー王。2階の王国に住んでいる。この絵は、ぼくがかいたんだ。ずっと木と車と建物と動物ばかりかいて、じつはきのうまで、人間はかかないことにしてたんだよ。ここに住んでいる人たちは、みんなけんかばかりしているからね。でもね、きのう、ここに住む人、全員をかいてみようと思った。」 
 ……こうしてエディーは大きな模造紙と鉛筆を持ち、住人ひとりひとりを訪ね、絵を描かせてくださいとお願いをする。エディーの住むアパートの名前は「平和荘」。でも、皮肉にも平和とは名ばかりで、住人たちは不満、無気力、身勝手さに満ちていた。何しろ彼らは、訪ねた男の子エディーにまで文句をぶつけるありさまである。でも彼は忍耐を持って、まるで大人のようにじっくりと耳を傾け、ことの始末を自分で引き受けるという分別のある行動に出る。廊下に山と積まれたゴミ袋を片付けたり、部屋の中でバーベキューをする人に窓を開けることを教えてあげたり……と。
 最後に発表されるエディーの絵が見ものである。わたしも、息子も、意外な表現にどっと笑ってしまった。ユーモアを交えて、うまく描いたものだと思う。自分勝手な住人たちと社会生活のあり方を伝えるエディーの行動を、息子はどんな気持ちで見ていただろう。表紙の印象とは裏腹に鋭い視点で社会を切る秀作は、米国都市部での暮らしを賢く示唆する絵本でもある。ハロウィンとエディーの行為をきっかけに、コミュニティーのあり方を考えた。
 ねずみちゃんになった娘とサダム・フセインになった息子は、大満足のハロウィンを過ごした。お菓子に囲まれる夢見心地の体験は、1年に1度だものね。かぼちゃスープの味わいは、研究の余地ありだった。たまねぎだけじゃなくて、もうひとつか、ふたつ、何かが加わるともっと美味しくなるんじゃないかな。(asukab)

  • 米国都市部の問題をユーモアを交えて問う

Eddie's Kingdom

Eddie's Kingdom