わたしの日常

 フリーランチ受給率70%の小学校でチューター。数字を見て「市内南部の99%に比べたらいいじゃないか」ということになるかもしれないが、根底に流れる文化は同じである。ここに通う子どもたちの背後で教育がないがしろにされる理由は、「米国にやってきたばかりで日々のサバイバル優先」とか、「家庭内で大人たちがもめている」とか、ほとんどが不安定な生活基盤から生まれている。要するに、ここは米国社会で「人のことなんか思いやっていられない」、心の余裕のない大人を親に持つ子どもが通う小学校、社会の底辺に位置する小学校である。
 ここで子どもたちといっしょに過ごすのは楽しいが、彼らの社会的、学習的基礎力をサポートするのは並大抵のことじゃない。家で大人たちが何もしていない分を教師が負うことになるので、先生たちは常に基礎力伝授にエネルギーを吸い取られ、エクストラで楽しい授業が何も計画できない。立派な教案も、クラス運営案もここではある意味、何の役にも立たない。とにかく読み書きのできる大人が一人でも多く一対一で子どもに付きそい、基礎力を養ってほしい。学校側の願いは、常にその一言に尽きる。
 この階層に暮らしてみると、なんというか、人生に希望の持てないことが第一前提になっていることがよくわかる。すべてが悪循環。現代は近代ヨーロッパ社会の築いた社会だから、この文化になじめない人たちはみな悪循環の中で暮らすことになる。
 多様化に触れるという目的で、息子も娘もこの小学校に関わった。娘は現在も通っている。でも、彼女の場合、深い思いやりの学べる環境が必要なのではないかと思えてきた、最近。息子も通った近所のカトリック立小学校に来年度は転校させようか、と悩む日が続く。言葉と心の教育をしっかり施してくれる環境を求めている。わたしの怠慢のせいで彼女は日曜学校にも通っていないし、今が潮時かもしれない。