女の子のうた

 米国で子育て雑誌を講読していると、「娘と母親の関係」といった特集によく出会う。あまり意識したことがなかったのだけれど、これって思春期を迎える娘を持つ親にとり大きなテーマであるようだ。同性の子どもとの付き合い方って、永遠の家族のテーマなのかもしれない。同じ性であるから、気持ちが共有できる。でも、そう思い込んでいるから、まったく理解できないことに出会うと親は混乱する。そんな構図だろうか。自分の成長期がどうだったのか、振り返るきっかけが与えられる。
 『わたしは生きてるさくらんぼ―ちいちゃな女の子のうた』に出会ったとき、自分ではあまり考えたことのなかった少女のナイーブさを意識させられた。子どもに読むというより、これは自分自身を見つめ直す絵本になるのかも。原書は絶版のようで、図書館にも置いてなかった。
 娘に読むと「恥ずかしいよ、しかも戸があいてるよ、恥ずかしい、恥ずかしい」を連発していた。冒頭のページでは、玄関近く、ドアが開け放たれたままのところで、服をまとわない女の子がさくらんぼを口にしようとしているのだ。その後、洋服を着て登場する姿に「これならいいよ」と娘はほっとした様子だった。そうだね、これはちょっと恥ずかしいね。
 でも読み進めていくうちに自然と、すべてを解き放った無垢な姿ってきれいだなと素直に思えてきた。大人になれば、そんなことほとんどできないことだから。この詩は、それをうたっている。赤、金色、緑、青……さまざまな色の中で描かれる女の子の美しいこと。もちろんクーニーのイラストだからということはあるだろうけど、心と体の「自然美」をあらためて知らされた絵本になった。詩人が男性であることにも驚く。同性と異性とでは、これまた感じ方が違うと思うのだが、この美しさは普遍なんだろう。イラストからは、クーニーの理想の少女観が感じられるような気がする。最初はどきどきしたけれど、自然の姿をたたえる詩だから、これは「わたしは、わたし」を象徴していることになる。
 女の子が歌を歌う場面で娘が、「自分にはできない、恥ずかしい〜」と言っていた。恥ずかしがり屋の彼女らしいつぶやき。気になっちゃうんだね。わたしは娘とどんな関係が築けるのだろう。少なくとも、ナイーブな感性は共有できたらいいなと思う。(asukab)